日が西の山間へと没し、辺り一帯が闇の帳に包まれた頃。館の中では食事の支度が進んでいた。レイホウが作った三人分の食事をさやさやが食卓へと並べて行く。 通常、雇い主やその家族が使用人と一緒に食事を取るなどということはあり得ない。主人が食事をしている間は給仕をし、主人の食事が終わった後に使用人用の食堂で手早く食べるものだ。だがこの館ではご主人様の「一人で食べるのは味気無い」という一言によって、さやさやとレイホウも同じ食卓に着くことを許されていた。 そんなわけでさやさやは三人分の食事を運んでいるのだった。 「ハヤシライス ハヤシライス 深いコクとまろやかな舌触り 略してこくまろー」 「私の作った料理に変な歌をつけるでない!」 またしても調子の外れた歌を歌ってレイホウに怒られるが、さやさやはあまり気にした様子もなくスキップしそうな勢いで運んで行く。 「えへへー。だって楽しみにしてたんだも――」 カーペットの端のほんの数ミリという段差に足を取られる。大事に抱えていたはずのトレイとそれに乗っていた三人分のビーフストロガノフが、宙を舞った。即座に器から飛び出してしまったまだ湯気の煙る液体が向かう先には、にこにこした顔で食事を待つご主人様。 まだこの事態に気づいていない彼に先ほどのようなフォローは期待出来ないだろう。咄嗟の緊急事態の対処が異常な程に苦手なさやさやが体勢を崩した状態から復帰することも不可能だ。これから起こる悲劇を止める手立てが無い、そのことに深く絶望する。 (ごめんなさい、ご主人様。私、今度こそクビ……ですよね) スローモーションのように湯気を纏った赤茶色い液体の飛びゆく様を見ていたさやさやは、音に気づいてこちらを振り返ろうとしているご主人様に心の中で深く謝罪する。 一瞬とも永遠ともつかない転びゆく時間の最中、さやさやの脳裏に楽しかった館で過ごした日々が走馬灯のように駆け巡っていた。 春、満開に咲いた桜の木の下で花見をした。 ご主人様の笑顔の元、レイホウの用意した料理に舌鼓を打ち、ジュースと騙されて初めて酒を飲みもした。 (あの時は悪酔いしたレイホウさんが桜の木を蹴り出しちゃって、止めるの大変だったなぁ) 夏、照りつける日差しに肌を焼かれながら泳いだ。 パラソルの下でのんびりしていたご主人様を二人で水中に引きずり込み、みんなで水の掛け合いをした。 (レイホウさんビキニなのに大暴れしちゃって。ポロリはダメだってあれほど言ったのに) 秋、真っ赤に染まった紅葉が敷き詰められた道を三人で歩いた。 きれいな紅葉を持ち帰って押し花にし、三人分のしおりを作った。さやさやは今も使っているが、他の二人はどうなのだろうか。 (紅葉を見つめて、めずらしくレイホウさんが物思いに耽ってた。何かあったのかな) 冬、積もった雪で庭が真っ白に染まった。 雪だるまを作っていたさやさやにレイホウが雪合戦を挑み、いつの間にか加わっていたご主人様と三つ巴の戦いをした。 (魔球とか言って中に石を入れるんだもん。酷いよ) いつもレイホウに振り回されていた気もするが、それも今では良い思い出だった。 (あぁ、もう一度みんなで桜、見たかったな――) さやさやの目から涙が一滴零れたとき、黒い疾風がその脇を駆け抜けていった。疾風が中身が空になった皿へと辿り着くと、皿の姿が掻き消える。その勢いのままビーフストロガノフが飛びゆく空間へと躍り込むと、茶に染まっていた空間が次々と元の無色透明な空間へと戻って行く。 さやさやが地面に倒れ込んだとき、疾風もその動きを緩め段々と輪郭を形作る。見上げたさやさやの目には人の姿が映っていた。 両手と高く上げた右膝の上に、零れる前と変わらぬ姿のビーフストロガノフの皿を乗せて、見事なバランスで立っていたのは――。 「まったく、貴様は配膳一つまともにできぬのか」 「れ、レイホウさん!」 困った奴だと言いたげに嘆息し、倒れたさやさやを見おろしていたのはレイホウだった。 先程調理場で見たときには純白だった、レイホウがしているエプロンの所々に赤茶色い染みが出来ている。掬い切れなかったビーフストロガノフがご主人様に掛からないようにと身を挺して受け止めた証だろう。だが、そんなことをおくびにも出さず悠然と佇んでいる。 「ほれ、早くこの皿を退けんか。このままでは動けんだろう」 「あ、は、はいっ」 慌てて起き上がったさやさやは、レイホウの膝の上に微妙なバランスで乗っていたビーフストロガノフの皿を食卓へと移動する。動けるようになったレイホウは右手の皿をご主人様の前に、左手の皿を自分の座る場所に、食卓に先に置かれていた皿をさりげなくさやさやの座る場所に配膳した。 ちなみに飛んできた銀色のトレイはご主人様が片手で受け止めていた。 「ったく、私の会心の作が台無しになるところだったぞ……正座だ正座!」 「は、はいぃ」 どやしつけられたさやさやはレイホウの前まで走って来て、ちょこんと正座する。さやさやが正座したことを確認すると、いかに自分が手を掛けて料理を作ったか、どれだけの時間煮込んでいたか、盛り付けに気を配ったかを切々と語る。料理のことが終われば次は普段の就業態度に対する説教が始まる。 いつ終わるとも知れない説教に、さやさやの顔が半泣きになって来た。レイホウの説教が聖職者の在り方からさやさやの体型に移り、シャンプーの仕方に至ったとき、さすがに見かねたご主人様が立ち上がって仲裁に入る。 「そ、それくらいで勘弁してあげないか? わざとやっているわけではないんだし、次からまた気をつけてもらえればそれで。ね?」 気をつけるんだよと言いながらさやさやの頭を撫でる。 「ご主人様はさやさやに甘過ぎるぞ! こいつは変なスキルを持ってるからミスをすればする程被害が大きくなって行くのだ。私とていつまでもカバーできるか分からんのだぞ!」 「スキル? まぁまぁ、そう怒るなって。今回は何とかなったんだしさ。それに、せっかくレイホウが作ってくれた極上のハヤシライスも冷めてしまうよ?」 不満顔で肩を怒らせているレイホウをなんとかなだめようとご主人様も必死だ。まだまだ言い足りないレイホウなのだが、さすがにご主人様に止められてまで続ける気は起きなかった。 「……ふう。貴様がそれで構わぬと言うのなら、私もこれ以上は言うまい。それとハヤシライスではなく、ビーフストロガノフだと貴様にも何度も言ったであろうがっ」 ご主人様とさやさやはホッと胸を撫で下ろすが、ギロリと睨まれて慌てて目を逸らす。 「ともかく夕飯が無事で良かったよ。ありがとう、レイホウ」 無造作に近づき、何気ない仕種でレイホウの頭を撫でる。 「ば、ばかもの! 私までこいつと同じに扱うでない!」 顔を赤くして手を振り払う。一瞬悲しそうな顔をしたご主人様だったが、それではとばかりに今度はギュッと抱きしめた。 「な、な、な、何をっ!? さやさやの前だぞっっっ!」 「私の前なければ良いんだ……?」 ポツリと言ったさやさやツッコミがわずかに残っていたレイホウの冷静さを奪い去る。 「そ、そういうわけではっ」 顔が真っ赤になるほど血の上った頭では、思い浮かんだ論理的な反論も即座に霧散してしまう。もはや、しどろもどろになって怒鳴るくらいしか出来なかった。そんなレイホウに構わずさやさやは更なる追撃を掛ける。 「ずるいですよレイホウさんばっかり! さっきだってご主人様に……ごにょごにょ」 「なっ、ばっ……! 何を言って――見て、いたのか?」 先ほど廊下でレイホウが抱きしめられていたとき、さやさやもあの場に居合わせてしまっていたのだ。不満げに眉をひそめながら全て見ていたことを告げる。 「レイホウさんが帰ってこないからどうしたのかなーと思って見に行ったら、あんな事してるし」 「あ、あれはこいつが、勝手に……」 出て行こうにも出て行けず、柱の影からジーッと見ていたらしい。身振り手振りを交えてあの時の状況を再現さえしている。 さやさやのオーバー過ぎるリアクションに「自分はそこまでしていない!」と叫びながらも、そういえば確かに何か不気味な思念のようなものを感じたような気がするレイホウだった。 的確にレイホウの痛いところを突いてを追い詰めて行くさやさやの言動。しかしそれは計算などでは無く、全て天然によるものなのだ。ボケだけでなくツッコミまでも天然でこなすさやさやには一流芸人に成れる資質があると言っても過言ではないだろう。いくらレイホウと言えども慣れない受け側に回ってしまっては形無しだ。発する言葉は一々どもり、そこを突かれて更なる焦りを呼ぶという悪循環に陥ってしまっていた。 「私だって抱きしめてもらいたいのに。うー、夜這いとかいうのしてみようかなぁ」 しかし、さやさやの快進撃もここまでだった。本来は受け専門であるさやさやが攻め側に立って、いつまでも優位を保っておけるはずもない。本人は意味を理解しないまま言ったかもしれないほんの些細な、しかし致命的な一言がレイホウの思考を一気にクールダウンし、反撃のスキを与えてしまった。 「夜這いだと? 貴様も聖職者の端くれなら恥を知らんか!」 すかさず攻めに転じるレイホウ。どう言えばどういう答えがさやさやから返ってくるかは熟知している。伊達に何年もさやさやのボケにツッコミを入れ続けて来たわけではないのだ。 「え、ダメなの?」 「あたりまえだ! ご主人様が許しても、この私が許さん!」 ちょっと本音が出てしまったが気にしては負けだ。 「俺は全然構わないわけだけど」 「おい、ご主人様!」 さやさやを調子付かせるなと目でご主人様を威嚇する。ご主人様はおどけながらも軽く頷く。 「でもさやさや。意味もわからずにそういう言葉を使ってはいけないよ」 今の今まで正座していたさやさやの手を取って立ち上がらせると、諭すような口調で言い聞かせる。ご主人様にそう言われて大人しく従わないさやさやではなかった。シュンとして俯いてしまう。 「全く、どこでそんな言葉を覚えてきたのだ……」 「えっと、こないだアコライト時代の友達が言ってたのです」 いつもエッチな話ばかりしてくる耳年増な級友のことを思い浮かべる。聖職者にあるまじきことを平然と言ってのける人物などそう多くは居ない。猫耳を愛用している猫っぽい笑顔、「ニャフフ」という笑い声に思い至ってレイホウは苦い顔をする。 「……あいつめ」 一人置いてきぼりにされていたご主人様は小さく咳払いをすると、気を取り直したように二人をエスコートする。 「さっ、早く食べないと本当に冷めてしまうよ」 ご主人様に手を取られ、淑女のように席までエスコートされたレイホウはまた少し頬を赤らめている。 「ハヤシライス、ハヤシライス」 先にエスコートされて席に着いていたさやさやがおどけてはしゃぐ。 自分の巻き起こした波乱から一転して何の憂いもなくなった楽しい食事。大好きなハヤシライス。そのはずなのに。 嬉しさを隠して困ったような顔をしているレイホウと、その彼女に微笑みかけるご主人様とを見ていると、何故だか少しだけさやさやの胸がチクリと痛んだ。 ※さやさやの一口メモ このお屋敷にはプールがあるんだよ! でも夏になったらコモドに海水浴にいったりもするんだよ。 |