Chapter.3 お帰りなさいませ、ご主人様


 青く澄み渡っていた空がオレンジ色に染まり、一日の仕事を終えた人々が家路に急ぐ黄昏時。街の街灯が灯り始める頃、館の各所にも明かりが灯されていった。
 「アホ毛騒動」によって長い間茫然自失に陥っていたレイホウだったが、いつもの状態に戻っただけだと自分に言い聞かせて何とか立ち直り、館管理の仕事に戻ることに成功した。先に仕事に戻っていたさやさやにも大きなミスはなかったらしく、軒並み仕事は終わっていた。
 自失から立ち直るのが遅れたためにビーフストロガノフを少し煮過ぎてしまったのが心残りだが、味の悪い部分はさやさやに食わせることに決めて気持ちを落ち着かせた。食通の口真似などをしていたさやさやだが、彼女はそんな高尚な舌などは持ち合わせていない。細かい味の違いなどわかりはしないだろう。
 何の疑問も持たずに満面の笑みを浮かべてビーフストロガノフを頬張るさやさやを想像して、思わず笑みが零れる。
「レイホウさーん、館内の明かりをつけ終りましたー。っと、何か面白いことでもあったんですか?」
「何でもない、気にするな。ごくろうだった」
 館内の明かりを付けて回っていたさやさやがちょうど戻ってきた。顔を引き締めるのが一瞬遅れて見咎められてしまったようだ。
「えー、そんな風に言われたら逆に気になりますよう。何ですか? 何ですか?」
「いやなに、ビーフストロガノフがうまく出来たのでな」
 好奇心の塊となって詰め寄るさやさやに、少しの逡巡も見せることなく平然と言ってのけた。お前が食べる分以外はな、と心の中で付け加えながら。
「え、ほんとっ!? わーい、ハヤシライス、ハヤシライス〜」
 一番不味いところを食べさせられるなど思いもしないさやさやは子供のように無邪気にはしゃいでいる。そんなさやさやの哀れさに少々気が咎めたが、先ほど天国から叩き落された悲しみを思い出して心を鬼にする。
「ハヤシライスではなく、ビーフストロガノフだ。それよりさやさや、玄関の方で何やら騒いでいたがまた何かやらかしたのか?」
 そのまま話を続けるのは忍びなかったのか、それとも職務上さやさやの行動を把握しておきたかっただけだったのか話題を変えた。
「別に失敗なんてしてないですよう。あのですね、何か変なお爺さんぽい人が何やら怪しい動きで奇妙なことをしつこく……」
「限りなく意味が分からん」
 あまりにも抽象的で要領を得ないさやさやの説明を聞いて、レイホウの額がピクリとざわめく。慌ててさやさやは言い繕った。
「あぁぁ、えぇとその、まるでどこかの暗黒卿みたいな黒くて怪しいローブとか着ちゃってたし、「やらないか」とか言って来るし、もう変態さんな怪しさ爆発だったので早々にお引取り願いましたっ」
 要約すると突然来訪した怪人物が意図不明な行動を取って来たので門前払いしたということらしい。普段から人を疑うことが無い、良く言えば純真な、悪く言えば騙され易いさやさやがここまで怪しがるのだから相当に怪しかったのだろう。
「ふうむ……まぁ、今日は来客予定も無かったしのう」 「うんうん、ご主人様に会いたいみたいなことも全然言ってませんでしたしね」  一体何が目的だったのだろうか。主人への用で無いとすると誰が目的だったのだろうか。さやさやからこれ以上詳しい情報が得られそうも無く、実際にその人物に会っていないレイホウにはそれ以上考えたとしても真実に近づくことは出来ないのだった。
「っと、そういえばさやさやよ。そろそろご主人様の奴が帰って来る時間ではないか?」
「あ、もうそんな時間!? お出迎えに行かなきゃっ。ほら、レイホウさん早く早く!」
 急に余裕無さげにそわそわし出すと、そのまますぐにも駆け出そうとする。
「慌てなくともまだ時間はあるだろう」
「でもでも、早く行って待っていたいからっ」
 待っていること自体が嬉しいとばかりに微笑むと、本当に走り出してしまった。
「まったく、仕方のない奴だな……」
 こいつと居ると慌しくて敵わんなと嘆息しつつも付き合って走り出すレイホウ。怪人物の話などはもう既に記憶の隅に追いやられてしまっていたのだった。

 二人が門の前に到着してから半時もしない内にご主人様の車が現れた。二人の存在に気づいたご主人様が運転席から笑顔で手を振っているのが見える。さやさやは思い切り手を振ってそれに応えるが、レイホウは到着するまで何もしないとばかりに腕を組んで目を逸らしていた。ご主人様の車が到着すると、ようやくレイホウも動いて迎え入れた。
いつもならば車庫に直行する所なのだが、出迎えてくれた二人に応えるためか門のすぐ近くに車を止めてそのまま降りてくる。
「なんだ、二人ともわざわざ外で待っていてくれたのかい? 屋敷の中に居てくれてもよかったのに」
 そう言って人懐こい笑みを浮かべる。長身のレイホウよりも更に頭半分高い場所にあるその顔を見つめていたさやさやが、ついに我慢できなくなったのか走って駆け寄る。
「ご主人様、おかえりなさっ――」
 言いかけたところで何かにつまづいた。小石や段差などではなく、不器用にも右足を自らの左足に引っ掛けたようだ。さやさやは走っていた勢いそのままに――ご主人様の胸に飛び込んだ。

「ただいま、さやさや。怪我はなかったかい?」
 転んだにしては何処も痛く無いし、転がった時のような視点の混乱もなく、さやさやは最初何故に何ともないのかが不思議だった。だが、自分が誰かに抱き留められていることに気づき、掛けられた声の優しさに気づき、見上げるとすぐ目の前にあった気遣わしげな表情に気づいたとき、やっと状況が飲み込めた。
 ご主人様に抱き留められていたのだ。
 理解した途端に顔は真っ赤に染まり、慌てて飛び退いた――つもりだったのだが。飛び退くなどということを咄嗟にできるほど器用なはずもなく、あっさりと足を滑らせる。

 今度こそ転ぶ覚悟をしたさやさやだが、それを予期していたかのように一歩踏み出したご主人様の腕によって再び受け止められていた。
 自分に飛び込んできた最初の一回だけならば、大抵の人間は受け止めることが出来ただろう。だが、さやさやが行ったのは前後への間髪入れない連続転倒だったのだ。後ろに飛び退いた時点で手の届く範囲から出てしまうため、二度目の転倒を防ぐことは非常に困難になる。
 それをご主人様は一歩踏み出すという動作によって可能にしてみせたのだ。一連の動作に淀みはなく、ごく自然に行われていたところもポイントが高い。
 さやさやも常識の範囲では考えられない挙動を取ったが、それをカバーしてみせたご主人様の身ごなしもまた常人の域を逸脱しているようだった。
 二度までも転びかけたところを受け止められてしまってはもう飛び離れるわけにもいかず。かといってこのまま抱き締められたままというのもとてつもなく恥ずかしい。頭への血の登りは最高潮に達していた。
「あ、あああの、そのっ! も、申し訳ありませんっ。何度も何度も転んじゃって、ご主人様にご迷惑お掛けしちゃって、私ったら何やっちゃってるんでしょう、もう、もう――」
 焦りのあまりにすごい勢いで謝罪の言葉を捲くし立て、自分でも何を言っているのか分からなくなり、それがまた焦りを有無という無限ループに入ってしまったさやさやだが――
「大丈夫だから、ね?」
 宥めるでもなく、諭すでもなく。ご主人様はただ優しい目で真っ直ぐに見つめると、頭を撫でてやった。
「――はう、ごめんなさい」
 気持ち良さそうに目を細め、気の抜けた声と謝罪の言葉と共に少しだけ冷静さを取り戻す。混乱から立ち直ったさやさやに軽く頷いて笑いかけてやると、ご主人様はさやさやをしっかり立たせてから一歩離れた。
「それで、レイホウ。僕の居なかった間に何か変わりはなかったかい?」
 ぽわーっとした顔のまま立ち尽くしているさやさやをそのままに、ご主人様はレイホウの業務報告を聞く。さやさやを受け止めてから立ち直させるまでの一連の鮮やかな手並みに感心し、心の中で十点満点の札を掲げていたレイホウだったが、声を掛けられるとすぐに我に返って鷹揚に頷いた。
「特に言うべき程の問題はなかった、……が。強いて挙げるとすれば、さやさやが見事な一回転宙返りを決めて玄関を水浸しにしたことか。今やったように、な」
「……ははは」
「うぅ、ごめんなさぃ……」
 今やったようにの部分を強調してニヤリとさやさやを見やるレイホウと、それを聞いて困ったように顔を掻くご主人様。さやさやは再び顔を赤くして小さくなるしかなかった。

 レイホウの口から語られるさやさや失敗譚の数々。洗濯物籠をひっくり返しては洗い直すはめになり、洗い終わった食器を油で汚してはまた洗う。物を壊していないのは奇跡としか言いようが無い惨状だった。数え上げたら切りがないその武勇伝に、さすがのご主人様も顔を引きつらせる。
「うーん。新しくメイドを雇った方が良いのかな……?」
「わっはっは。さやさや、これでお前もお役御免だな」
「そ、そんなぁ。私、私、クビ……なんですか?」
 ご主人様の爆弾発言とそれに乗じたレイホウの追撃を受けて、さやさやは捨てられそうな子猫のような今にも泣き出しそうな顔でご主人様に縋りつく。

「ごめんごめん、言葉が足りなかったね。二人だけでは大変だろう?だから君達に加えて他にもメイドを雇おうかな、っていう話さ」
 珍しく慌てた様子で釈明するご主人様。その話を聞いてさやさやはホッと息をつくが、レイホウはニヤニヤと笑っている。どうやら言葉の意味を正確に理解していたようだ。意味がわかっているのに煽ったことに気づいて、「酷いじゃないですかっ」と非難するが、レイホウがそんな抗議に取り合うはずもなく、飄々と受け流してしまう。
「いや、ね。君達は君達でとても良いんだが、真面目でそつが無い完璧メイドがもう一人居たらいいなー、なんて」  二人のやり取りをにこやかに見守っていたご主人様は、ひと段落着いたのを見てぽろりと本音を零してしまう。真面目だがそつが有り過ぎるさやさやはますます落ち込み、そつは無いが不真面目なレイホウは憮然としている。
「ふん。そんな奴を雇う余裕があるならば、もっと別な者を雇うべきではないのか?」
「別な者って、例えばどういう?」
 ご主人様に問われると、レイホウは言わずもがなだろうという表情をして鼻息を荒げる。
「この館には料理人も庭師もおらぬではないか。車の運転も貴様自らが行っておるし……。それと、執事だ。メイドばかりではなく執事も雇うべきだろう? 名はセバスチャンやアルフレッドなどという者が良かろうな」
 レイホウから執事という言葉が出た途端、ご主人様の表情が険しくなる。
「料理はレイホウが居れば問題無いだろう? うちの庭には専属の庭師を雇わなければならない程立派な樹木なんてないし、車の運転は私の趣味だからね。そして何より、執事なんてものは論外。却下。絶対に雇わないぞ」
 普段見せないご主人様の剣幕にさすがのレイホウも気圧される。さやさやなど少し怯えてしまっているようだ。それに気づいたご主人様は苦笑して表情を柔らげる。
「すまない、脅かしてしまったようだね。だが、私は――メイド以外を雇ったら負けかな、と思っているんだよ」
 完璧に見えたご主人様の唯一の欠点。それは極度のメイド萌え、なのだった――。

 ご主人様のお出迎えを終えると、さやさやとレイホウはそれぞれの仕事に戻って行った。
 車を車庫に入れたご主人様は夕食まで特にすることもなく、自室に戻ってくつろごうと歩いていた。と、その背中に何者かの声が掛けられた。仕事に戻ったはずのレイホウだ。
「おい、ご主人様。その、なんだ……」
「ん? どうしたレイホウ、何かあったのか?」
「えっとだな。あー、いや、何と言えばよいのか」
 いつになく歯切れの悪いレイホウ。何か言い辛いことがあるのだろうかと、緊張を解すためにこやかな顔でレイホウの顔を覗き込む。だがレイホウは逆に俯いてしまった。
「何か気になることでもあるのかい?」
「……」
 何か言おうとして躊躇っているレイホウの言葉を辛抱強く待つ。一分が経ち、二分が過ぎ、三分目に入ろうかとしたとき、ようやくその重い口を開いた。
「……のか?」
「え?」
 しかし、漏れでた言葉は聞き取ることが出来ない程に小さなものだった。それほどまでに言い難いことなのか、と心配そうな顔で覗き込む。すると、急に顔を上げて捲くし立てる。
「だから! 貴様は完璧なメイドの方がいいのかと聞いているっ」
「そ、それは完璧に越したことはないと思うけど……」
 目前三センチにまで迫ったレイホウの迫力に気圧されたのか、意外と睫毛長いんだななどと取り止めの無いことを考えてしまう。
 レイホウは再び俯くとボソボソと何か小声で言う。
「……なのか?」
「は?」
 聞き取ろうとして近づいたところ、再び顔を上げて捲くし立てはじめる。
「だから、だからっ! 不真面目な私などいらぬのかっ」
 今度は鼻先一センチに満たない程の位置にレイホウの顔があった。切羽詰ったレイホウの剣幕に驚きながらも、ちょっと顔を傾けたらキスをしてしまいそうだななどと不謹慎なことを考えてしまう。
「なんだ、さっき言っていたことを気にしていたのかい?」
「何だとは何だっ! 私は、私は――!」
 言葉に詰まり、ご主人様の腕に縋りついて呻くレイホウ。その目の端が傍の燭台の灯りに照り返されて煌いていた。
「さやさやが失敗した分は私がカバーするからっ、私も……ちょっとは真面目にやるからっ! だから、私達以外のメイドなんて――」
「雇わないよ。さっきのは本当に冗談だったんだ。悲しませてしまってすまない。もうあんなことは言わないから。だからそんな顔、しないでくれよ」
 そんな顔と言われて、自分の目に涙が溜まっていることに初めて気づく。手で拭うことも出来ず、うろたえて後ろを向いてしまう。 「さ、さやさやの奴め、掃除が荒いようだなっ。ホコリが、ま、舞っているぞ」
「そうだな、目にホコリが入っただけだよな」
 そう言いながらふいにレイホウを後ろから抱きしめる。突然のことに一瞬呆けたが、すぐに何が起きたのか理解して顔を真っ赤にする。
「おっ、おいっ」

 暴れるレイホウの抗議など聞こえないかのように彼女の髪に頭を埋めると、囁くように言う。
「私には君たち二人が居れば十分――いや、君たち二人でなければダメなんだ」
 それを聞いて安心したのか、レイホウは顔を伏せて大人しく抱かれるままになっていた。――二人を見つめている目があることなど気づかずに。


※さやさやの一口メモ

 このお話に出てくるレイホウさんはツンデレらしいよ!


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