Chapter.2 アホ毛? 触覚? サスーン・クォリティ


「はあぁー。良いお湯だーなー アハハーン 良い湯ーだーなー アッハハハハハ」
 恍惚の表情を浮かべたさやさやが、微妙にリズムと歌詞のずれた奇妙な歌を唄っている。その歌の示す通りに彼女は今、館の一階奥にある大浴場の湯船に浸かっていた。
 先程の壮絶な転倒で全身水浸しになってしまったさやさやがあまりにも盛大なくしゃみを繰り返すため、仕方なくレイホウが後始末を引き受けて風呂に放り込んだのだ。
 この浴場は主の専用浴場とは別に作られた使用人用の浴場である。
 だから偶然入ってきたご主人様とニアミスなどというお約束な展開はありえない。そもそも今はまだ、そのご主人様自体が館に帰って来ていないのだから、入浴を覗かれるなどという心配自体が存在しなかった。レイホウも玄関の清掃にはまだ時間が掛かるだろう。
 そんな気楽さからか、さやさやの歌は四番まで続き、次の曲のイントロを鼻歌で唄うほどに気を抜いていた。

しかし。
「何時まで入っておるのだ!」
「ひゃうわーぁ!?」
 その開くはずのない扉が唐突に開かれた。というか、蹴り開けられた。
 ドアが軋むほどの激突音と怒声とに驚いて湯船から跳ね上がる。が、入浴を覗かれたことに気づいて、恥ずかしさから慌てて首まで湯に浸かる。湯船の熱に当てられたのか、人に見られたせいなのか顔が急激に赤くなる。
「れ、れ、れ」
「お出かけですか?」
「れれれのれー――って、違いますようレイホウさん!」  ドアを蹴り開けたのは後始末をしていたはずのレイホウだった。さやさやも自分の仕事速度を基準に考えていたわけではないだろうが、レイホウの作業効率はさやさやの予想を遥かに上回っていたのだった。
 「いきなりドアを開くのやめて下さいって前から言ってるじゃないですかっ!」
 耳まで真っ赤にして抗議の声を上げるさやさや。女同士でも恥ずかしいものは恥ずかしいらしい。
「うるさい! 人に後始末をさせておきながら、のん気に歌など唄っておる貴様が悪いのだ」
「うぅぅ……返す言葉もございません」
 入浴を覗かれただけでなく調子外れの歌まで聴かれていたことに気づき、ますます顔を赤くして小さくなってしまう。
「そ、そうだ! レイホウさんも一緒に入れば良いのですよ。気持ちいいし、ご主人様の前に出るときにも汗臭くないし、一石二鳥!」
 状況を打破するために普段使わない頭をフル回転させたさやさや。名案を思いついたとばかりに目を輝かせて提案する。このまま説教が始まってしまったらのぼせること確実なため、懸命にレイホウに勧める。
「ふむ、風呂か……。ご主人様の奴が云々はともかく、悪くない案だな。よかろう、私も入るとしよう」
 断られることも覚悟していたさやさやだったが、レイホウはあっさりと了承。言うが早いかメイド服を脱ぎ捨てて、ずかずかと浴場に入ってくる。
「け、決断早いですね……っていうか、前! 前くらい隠してくださいようっ」
「わはははは、気にするな、気にするな。私は貴様と違って隠さねばならぬほど貧相な身体つきはしておらんのでな」
 隠すどころか見せ付けるように反らしたレイホウの胸と自分の胸とを見比べて、その大きさの違いに軽くショックを受ける。そんなさやさやを気にする様子も無く、レイホウは鼻歌を歌い出しそうな上機嫌のまま湯船に飛び込んだ。
「わ、私だってその内――うわっぷ、静かに入ってくださいよう! お湯が減っちゃいますっ」
 大きな水飛沫が上がり、さやさやの顔にも大量の湯が浴びせ掛けられる。何か言いかけていたためか口にまで湯が入ってしまったようだ。しかし当のレイホウは抗議の声など何処吹く風、楽しそうにさやさやを弄り続ける。
「ガッハッハ! まぁそう落ち込むな。世の中には特殊な嗜好の人間もおるようだしな」
「特殊な、って! うー、そんなの全然慰めになってませんよう」
 自分の胸を両手で覆い隠し、うつむきながらボソボソと言っている。
 そんなさやさやを笑ったまま見やり、お前の胸は掌で完全に隠せてしまうのだなと駄目押ししようとして――ふと、違和感に囚われる。何かおかしい。だが何処がおかしいかと問われると言葉に詰まってしまう、そんな微妙な違和感だった。
「おい、さやさや。お前どこか変ではないか?」
「た、確かに私はレイホウさんみたいにスタイル良くないかもしれませんけれど、最近はウェストだってわりと細くなってるんですからっ」
 またスタイルのことを言われたのだと思い、なんとか自尊心を護ろうとして見当外れなことをムキになって言う。
「尻はでかいがな」
「むきゃー!」
 やぶ蛇だったらしく、あっさりと返されてしまう。何を言っても簡単に返されてしまい、もうどう反論すればいいのかすら思いつかなくなってしまった。こうなると、癇癪を起こして湯面を平手でパシパシと叩くくらいしか出来ることはなかった。
「貴様が貧乳・ずん胴に加えて安産型な尻と三拍子揃っているのは分かっておるのだが、そういうことではなくてだな。こう、どこかいつもと違うような……?」
「?」
 貧乳、ずん胴、安産型という一言一言がさやさやの心に確実に突き刺さり、自尊心は既に崩壊寸前だった。半泣きになりつつも、続くレイホウの言葉に小首を傾げる。と、濡れた髪が一房肩に落ちた。
「あっ、それだ! その頭! 髪! 前髪だ! いや、横髪とでも言うのか? まぁ呼び名はどうでも良いが、いつもゴキブリの触手のように伸びておる髪が今は普通なのだ!」
「ゴキブリって……。いつもは立ち上げた髪をケープでしっかりキープしてるんですよう!」
 ゴキブリという言葉を聞いただけで背筋がぞわっと泡立ち、おぞましい記憶が蘇る。昔、VITを鍛えていたときに地下水道で盗蟲の群れに這い寄られたことがあるのだ。叩けば叩く程に数を増やして襲い掛かって来る黒光りしたその姿、わさわさと動く気味の悪い足、揺らめく触覚。あまりのおぞましさに泣きながら逃げ帰ったのは今でもトラウマになっている。
 そしてそれが自分を比喩した言葉だと理解すると、ショックで目の前が暗くなった。
「整髪料など使っておるのか。そんなものまで使ってわざわざ虫っぽくする貴様の気が知れんな」
「もうっ、もうっ! 虫だゴキブリだって、それはむしろレイホウさんの方じゃないですかっ。触覚がピンピン跳ねてますよ!」
「あ、アホう! これは触覚ではなくアホ毛だ、アホ毛っ! それに好き好んでこんなもん生やしてるわけ無かろうが。何度寝かせても立っちまうんだよっ」
 スタイルの次は髪型まで虫レベルに貶められ追い詰められたさやさやは、前から思ってはいたが言わないでおいたレイホウの触覚跳ね毛について言及してしまう。割とそのことを気にしていたレイホウも心に痛手を受けたようだった。
「……」
「……」
 お互い不毛に傷つけ合った末に、言い争いは痛み分けに終わった。これ以上何か言って更なる反撃を受けることを恐れたのか、気まずい沈黙が二人の間に訪れる。しばらくは黙っていたさやさやだったが、無言であることの重圧に耐えかねたのか話題を変えようと喋り出す。
「そ、そうだ。レイホウさんはシャンプーって何処のを使ってるんですか? 私はヴィダルサスーンを使ってるんですけど」
話題はあまり変わっていなかったが、必死なさやさやは気づいていない。
「メーカーなど気にしたことも無かったが……確か、メリットと書いてあったか」
 唐突なフリに戸惑いつつ、レイホウも先程の言い争いの傷が癒えていないのか素直に受け答える。
「メリットですか? あれも悪くないとは思うのですが、私が前に使ったときは髪がキシキシしてしまって……」
 自分の髪を一束手に取っていじくりながら、レイホウの意外と長い髪にも手を伸ばす。見比べてみると一目瞭然、さやさやの髪の方が艶やかで柔らかそうだった。
「頭さえ洗えればシャンプーなど何でも同じであろう。私は石鹸でも良いと思っておるぞ」
「石鹸なんかで洗ったらダメですっ! 髪は女の命なのですから、ちゃんとシャンプーで優しく洗わなければいけませんよ」
 あまりにも無頓着なレイホウにびっくりし、まるでお姉さんのように諭してしまう。いつもとは立場が逆転してしまっていることに気づいて二人とも苦笑する。
 石鹸シャンプーというものは存在しているし、石鹸で髪を洗うこと自体には問題ないだろう。正しく使えばむしろ石鹸の方が良いとさえ言える。
 だが石鹸は頭を洗う物であって髪を洗う物ではないとさやさやは考えている。頭はすっきりするだろうが、洗髪後のケアをしなければパサパサな髪になってしまう。レイホウの性格から考えて確実に洗いっぱなしで終わると予測しての発言だった。
「私の髪は元々硬くて丈夫だからな。それほど心配は無いと思うが」
「悪くはならないかもしれないけれど、良くもならないんじゃないかなー。その点ヴィダルは使っただけで違いが判ります。レイホウさんもヴィダルを使ってみましょうよ。そうだっ、私が洗ってあげます!」
 またしても名案を閃いたと手を叩くさやさや。嬉しそうに目を輝かている彼女の気持ちを無碍に断るのも無粋に思い、レイホウはその提案を受け入れることにした。髪の汚れと一緒に先程の確執も洗い流してしまおうと。
「ふうむ。では一つ頼むとしようか」
「よろこんで〜」

 湯船から洗い場に移動すると、さやさやはレイホウの後ろに回って髪紐を解く。
「確かに丈夫そうな髪かも。あ、でもちょっと痛んでますね。枝毛発見」
 レイホウの髪をザッと眺めると、枝毛を発見してはぷちぷちと引き抜いていく。
「おいおい、そんなことはいいからさっさとやってくれ」
「あ、はーい。それじゃさっそく。目を瞑っていてくださいね」
 レイホウが目を瞑ったことを確認すると、頭からゆっくりと湯をかけて硬い髪を解してゆく。手のひらで泡立てたシャンプーで、解れた髪を包み込むように馴染ませる。
「スタイリングの父とも呼ばれる世界最高峰のスタイリストさんが居まして、その方は自分の持っているノウハウを注ぎ込んで全ての女性の髪を労われるようにと一つのシャンプーを作ったのです。これを使えば誰もが世界最高峰のスタイリングを味わえるという自信の表れなのか、そのシャンプーにはその方の名が冠せられました。それがこのヴィダルサスーンというシャンプーなのです」
 髪と髪を擦らないようにゆっくりと、慈しむように髪を洗う彼女の眼差しはとても優しげなものになっている。レイホウもいつものように茶々を入れる気は起きず、黙ってさやさやの話に耳を傾ける。
「本物のサスーンさんが洗うのに比べたらまだまだだけれど、いつか私もサスーン・クォリティを出せるようになりたいなって思うのです」
 楽しそうに髪を洗い続けるさやさやに、口にこそ出さないがいつかそうなったら良いなと答える。そんなレイホウの雰囲気が伝わったのか、さやさやも嬉しそうだ。
 髪全体を満遍なく洗い終えると地肌を指の腹で揉むように洗ってゆく。最後に、洗うのの倍程の時間を掛けてゆっくりと泡をすすぎ落とす。
「手で梳いただけでサラサラになる髪なんて素敵でしょう? さ、終わりです。乾かしてみましょうか」
 本来ならばこの後にコンディショナーで髪を整えるのだが、最初から全工程を行ってしまってはレイホウが途中で飽きてしまうだろうとシャンプーするだけに留めておいた。その判断が後にもたらす災いを、そのときのさやさやは気づいてさえいなかった。

 二人は洗い場で冷えた体に湯船から汲んだ湯を掛け、温め直してから浴場を出た。
 脱衣所に用意してあった大きめのタオルで体を拭くと、そのままガシガシと頭も拭こうとするレイホウ。さやさやは慌ててそれを止める。自分の髪もそのままにタオルだけを体に巻くと、レイホウの髪へとタオルを押し当てて少しづつ水気を取っていく。最後にドライヤーで髪を整えてやると、レイホウは気持ち良さそうに目を瞑るっている。
「はいっ、完成です。どうですか?」
「おおっ! すごいぞさやさや、アホ毛が無くなっている! それにサラサラだ!」
 鏡に映る自分の髪、特に前髪の上でいつも跳ね回っていた忌まわしいアホ毛が存在していないことを確認して喜色満面になって笑みを浮かべるレイホウ。シャンプーのコマーシャルのように髪を髪をかき上げるとサラサラと綺麗に流れ落ち、その場でくるりと回っても髪はふわりと纏まって元の位置に落ち着いた。
「こ、これが噂の『纏まる髪』という奴なのか……? 感動した、感動したぞ!」
 生まれ変わった自分の髪に浮かれるレイホウを見て、さやさやも嬉しそうだ。
「ね、ヴィダル使ってよかったでしょう?」
「あぁ、私もこれからはそのシャンプーを使うことに決めた!」
 くるくる回ってはしゃいでいた彼女の動きが急に止まった。
「さ、さやさや……」
「ど、どうしました?」
 今まで聞いたことも無いレイホウの悲しそうな声に、思わず後退ってしまう。軋んだ人形のような音を立ててこちらを振り向くレイホウの顔には、これまた見たことも無い泣きそうな表情が浮かんでいた。
 その理由は聞かなくてすぐにわかった。彼女の頭の上で自らの存在を誇示するように突き出した一房の髪によって。
「ま、またアホ毛が……!」
「うーん、やっぱり私の技量じゃサスーン先生のようにはいかないみたい。テヘッ☆」
 ピンピン跳ね回るアホ毛。天国から地獄に叩き落されたショックから立ち直れないレイホウは、片目を瞑り舌を出してコツンと自分の頭を叩いて星を出すという天然記念物的なさやさやのボケにも反応できない。
 やはり一度シャンプーをしただけで直るほどやわなアホ毛ではなかったようだ。
「アホ毛……アホ毛……」
「あ、あははは……ごめんね」
 先程までの浮かれた様子からは想像もつかない放心し切った表情で、アホ毛アホ毛とうわ言のように繰り返すレイホウを見て、乾いた笑いをするしかないさやさやだった。


※さやさやの一口メモ

 レイホウさんが実際に使用しているシャンプーはメリットではなくアジエンスらしいよ!
 石鹸シャンプーは弱アルカリ性なので油分を落とすので髪がパサパサになってしまいます。そしてアルカリが髪のキューティクルを開くのでキシキシしてしまうのです。石鹸シャンプーはアフターケアが重要らしいよ!
 でも地肌と環境にはとても優しいので、使い方を誤らなければとても良い物らしいよ!


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