Chapter.1 二人はメイド


 プロンテラの町並みを北に行った場所にあるプロンテラ王城。その王城を更に北へ行った場所はいつの頃からか高級住宅街と呼ばれる区画になっていた。
 一般市民がほとんど立ち寄ることのないその区画の片隅に、戦乙女の名が冠された一軒の洋館が佇んでいる。長い年月を風雨に曝されて趣きを増した石造りの本館と、近年建てられたのであろう真新しい木造の別館。
 小さくとも手入れの行き届いた庭園には、一本の大きな桜の木と季節の花々が植えられた花壇が備えられている。春になれば満開に咲き乱れた花々が見る者の心を潤してくれることだろう。
 穏やかな空気が流れる、そんな館に住んでいるのはたったの三人の人間だけだった。館の所有者である男に家族は無く、彼と彼の雇った二人のメイドだけがその館に住んでいる。

 貿易商を営んでいる館の主は今、外に出ているらしく館に居るのはメイド達だけだった。彼女達は主人が帰るまでに館の整備を完了させておこうと懸命に働いている――ように見えるのだが。

 館の玄関で一人のメイドがひたすらにモップで床を磨いている。その仕事は非常に丁寧なのだが、傍目から見てもその作業は効率的とは言えず、広い玄関を拭き切るのにどれだけの時間が掛かるのか予想も付かない。今日中に終わるのかさえ疑問に思える。
 しかし当のメイドは時間の事など気に留めていないのか、鼻歌交じりで上機嫌に磨き続けている。
「これだけピッカピカにしたらご主人様も喜んでくれるよね」
 モップを動かす手を止めて、覗きこんだ床の大理石はメイドの顔が映る程に磨き上げられていた。そのまま視線をずらし――急に自らのスカートを両手で押さえる。
「床が鏡みたいになっちゃうのは、問題かも……」
 他に誰も居ないというのに一人で顔を赤くして、スカートを押さえたままに磨き上がった床から移動する。まだ磨かれていない場所まで移動するとホッと一息付いてスカートから手を離す。そこに、館の奥からもう一人のメイドがやってきた。
「おい、玄関の掃除はまだ終わらんのか?」
「あ、えっと、その。もうちょっと……かなぁ?」
 威張ったような、それを通り越して威厳さえも感じさせるような、そんな重みを持った声が投げかけられる。先輩と思しきそのメイドの声にビクリと反応すると、床を磨いていたメイドは何とも自信無さそうな返事をする。その余りの自信の無さ具合に先輩メイドの額に青筋が浮いた。
「『かなぁ』とは何だ、『かなぁ』とは! 兼業とはいえ、貴様もメイドならば自分の仕事に自身を持たんか!」
「は、はいぃぃっ!」
 先輩メイドの喝に、思わずモップを取り落として直立不動になってしまう。敬礼でもしそうな勢いだ。その様子に満足したのか、先輩メイドは「わかればよろしい」とばかりに軽く頷くと玄関の掃除状態を見て回る。ちょうど先ほど磨き上げた場所に立ち止まったらしく、先輩メイドのスカートの中が床に映り込んでいるのが見えた。さすがにこの状況で「パンツ見えてますよ」などと言ったらどんな雷が落ちるのか知れたものではないので、なるべく床を見ないようにして先輩メイドの動向を見守った。
 一通り見て周った結果、ほとんどの部分がまだ未清掃だと判って嘆息する。
「なんだ、まだ半分も終わっていないではないか……。この程度の仕事に一体いつまで掛かっておる。私ならば三十分で終わるところだぞ、三十分。それを二時間も前に始めたと言うのにこの状態とはどういうことだ、さやさや!」
 掃除の速度が遅すぎるのは理解していたが、先輩メイドのかなり無茶な発言に慌てて反論する。
「そ、そんなぁ。レイホウさんってば掃除スキルがメチャメチャ高いからそんなこと言えるんですよう。私のレベルじゃ三十分なんて絶対無理です、どう考えても四時間は掛かりますってばっ」
 情けない声を出すさやさと呼ばれたメイドと、妙に偉そうな雰囲気を醸し出しているレイホウというメイド。どこからどう見てもメイドにしか見えない格好をしている二人だが――しかし、本職はメイドではなく聖職者なのである。

 二人が勤めている聖堂が近年大改築を行い、そのために多大な費用が投資された。その影響で下級の聖職者に支払われていた賃金は削られ、普通に生活することさえ困難になってしまった。そのため、本来ならば認められない副業が暗黙の内に許可されるようになったのだ。
 他の聖職者と同じく生活に困ったさやさやは、「メイド服が可愛いから着てみたい」というただそれだけの理由で、深く考えもせずに副業としてのメイドを始めた。  しかし、彼女には向いていなかったのか、いくらやっても仕事は上達せず、失敗ばかりを繰り返していた。それでも彼女の性格上メイドをやめるつもりは全く無く、レイホウから転職を勧められても、「メイドさんってお仕事が好きだから」と言って笑っていた。
 そんなさやさやとは違い、レイホウは副業などする必要が無い高位聖職者だった。だが、妹分のさやさやが日に日にやつれて行くのを放っておくこともできず、彼女をフォローするためにメイドを始めた。
 何事にもそつが無い天才肌のレイホウは、たいした時間も掛からずに完璧に仕事を覚えていた。
 そんなレイホウにいつもフォローして貰っていたためか、さやさやのミスも少しは減ってきてはいるのだが……まだまだ一人ではやって行けそうもないため、いまだにさやさやと一緒にメイドを続けていた。

「レベルが足りないのならば気合でカバーせんか。いつも貴様が言ってるではないか『乙女ならやってやれだ』とか『VITアコをなめるな』とか何とか」
「VITは掃除に関係ありませんよっ。それに今はVITよりもSTRのが高いし」
 VIT全盛の時代には芋を片手にダンジョンを巡っていた彼女だが、インフレするモンスターの攻撃には耐え切れず、やむなくSTR型へ転向していた。
「バカもの、例えだ例え。それくらいの気合でやれば出来ぬことはない、ということだ」
「うー、そんなに言うなら手本を見せてくださいよう」
 どうにも納得が行かないらしく、なおも食い下がるさやさや。手伝って貰おうという下心もあるようだが、それはレイホウに一蹴されてしまう。
「それは出来ん。私には私の仕事があるのでな。今はご主人様の奴に食わせてやるビーフストロガノフを煮込んでいるのだ。後二時間は鍋をみていなければならんしのう」
「あ、今夜はハヤシライスなんだ。レイホウさんのハヤシライスはまったりとしていて、それでいてしつこくなく、口の中に広がる芳醇な味わいはまさに絶品。手足がこのお屋敷を突き破っちゃうくらい美味しいから大好き〜! ……って、煮込んでいるだけなら放っておいてもいいじゃないですかっ」
 頭から音符マークでも出しそうなニコニコ顔で長々と解説を入れながら恍惚と浸っていたさやさやだが、ハッと気づいてツッコミを入れる。その様子を何か面白い生き物でも見るような目付きで眺めていたレイホウは、ようやく入ったツッコミにやれやれと嘆息する。
「私は他にも仕事があるのでな、まぁ諦めろ。掃除が終わらなかったら貴様には食わせてやらんからしっかりな。それとハヤシライスではなく、ビーフストロガノフだと何度も言っているだろう……」
 笑いながらそう言うと、クルリと振り向いて再び厨房の方に去っていこうとするレイホウ。
「違いがよくわかりませんよう。って、待って下さいレイホウさ――」
 ビーフストロガノフによほど未練があったのか、どうしても手伝って貰いたかったのか、それともただ単に彼女が不注意なだけだったのか。
 さやさやは転んだ。

 『転ぶ』というだけならばそれほど難しいことではなかっただろう。
 その場にあったのは床掃除用のモップと水桶、小さなブラシや洗剤などの細々とした掃除道具を入れた篭。どれか一つに足を引っ掛けるだけでいい。
 しかし、さやさやが成した事はそんな単純なものではなかった。
 まず彼女はモップに右足を引っ掛けてバランスを崩した。それと同時にモップの位置が、篭が支点、水桶が作用点となるように修正される。
 バランスを取ろうとして踏み出された右足は、狙い澄ましたかのように力点となる位置でモップを踏み抜く。完全にバランスを崩したさやさやは自分で磨き上げた床に滑り、ついにグルリと一回転して尻餅をついた。
 テコの原理が適用された水桶は、中に湛えられていた水を勢い良くさやさやへとぶち撒ける。
 中身が空になり軽くなった水桶は、縦方向に回転しながら宙を舞う。放物線を描いて飛んだ水桶は、へたり込んでいたさやさやの頭へと寸分違わず吸い込まれると、直撃して快音を響かせたのだった。
 掃除道具の配置、進入角度、力加減、タイミングそのどれか一つでもずれていたら水桶は明後日の方向に飛んで行き、このコンボは成立しなかっただろう。
 彼女はそれだけのことを無意識にやってのけたのだ。他の者では単純に転ぶことさえなかったかもしれない。彼女だからこそ起こせた職人の技――それどころか芸術の領域に達していると言っても過言ではないだろう。

 ……過言ではないのだが。そんなことは本人には全く関係ない。ズキズキと痛む頭とお尻、ずぶ濡れの全身と張り付いてきて気持ち悪い服の感触に、頭を押さえながら今にも泣きそうな顔をしてうずくまるのみだ。

「うぅぅ。な、何? 何が起きたの……?」
「……すごいな。どうすればそこまで完璧に転ぶことができるのか不思議でならん。自らを罠に掛けるために転ぶ状況を作り出しているとしか思えんぞ。貴様、本当はどこかの少女マンガから飛び出して来たのだろう」
「何言ってるのかよくわかんないですよう」
 一部始終を目撃していたレイホウは水浸しになった床と彼女を見比べて思わず感嘆してしまう。怒ればいいのか笑えばいいのか呆れればいいのかどうにも判断が付かず、困ったような曖昧な表情を浮かべていると――ふと何かを思いつく。
「貴様、もしや変なスキルでも覚えているのではあるまいな? ちょっとスキルリストを見せてみろ」
「え、あ、ちょ、ちょっと待ってね! 今整理するから」
 レイホウの言葉を聞いて奇妙な程狼狽するさやさや。頭を押さえることも忘れてリストを取り出すと、慌てて何か手を加えようとする。
「整理って何だ! いいから見せんかっ」
「あっ、ダメ! 勝手に見ちゃダメですっ!」
 すかさずさやさやの手からリストを取り上げ、上から順に確認していく。
 メイド修練 Lv10、お掃除 Lv1、お洗濯 Lv1、お料理 Lv0。仕事関係のレベルが低すぎるのが気になったが、それはまだ許容範囲内だ。しかし、その次に書かれていた項目を見て一瞬動きが止まり、我が目を疑う。目をこすり、再度落ち着いて読み返してみてもやはり同じことが書かれている。
「何だこの『何もない所でつまづく』というのは! そんなスキルあったか!? しかもこれ、Lv10まで取ってあるぞ……?」
「えっとえっと、それはラブコメ系スキルって言いまして、持ってるだけで常時ラブコメのヒロインみたいな行動が取れるというすごいスキルなんです、パッシヴスキルなんです、他にも曲がり角で意中の人とぶつかったり、人が居るのに気づかないでドアを開けたりとか色々あって、それはもう――」
 ベラベラと聞かれてない事まで喋りだすさやさや。最初の衝撃から立ち直ったレイホウはいつまでも続きそうな彼女の言葉を制止すると、最大の疑問を投げかけた。
「わかった、わかった。それで貴様、何故こんなスキル取ったんだ……?」
「あの、そのね。……面白いかな、って」
 さやさやの言葉で二人の間に沈黙が訪れる。レイホウの頭の中でラブコメって何だ、転ぶことがスキルなのか、そもそも何でメイドにそんなスキルが必要なんだという疑問がグルグルと回っていた。しかもそれをただ単に面白そうだからという理由で取ったという。仕事のスキル上げもしないで。
「……マジか」
「マジです」
 さやさやが即答すると、レイホウの額に大きな青い筋がビキリと音を立てそうなくらいに浮き上がる。
「そんなもん取ってる余裕があったら掃除の1つもマスターせんか!」
「ぎゃ、ぎゃぼー!」
 激しいツッコミを受けて奇妙な悲鳴を上げながらも、必死でモップを拾うと――水にすべって転んだ。
「さーやーさーやー!」
「ひうぁぅわーぁ!」

怒鳴り付けつつ、さやさやが仕事で失敗するのは適正やレベル云々ではなく、このスキルが原因なのではないかと思うレイホウなのであった。


※さやさやの一口メモ

 ビーフストロガノフはサワークリームという白いクリームを入れるところが大きな違いらしいよ!
 ハヤシライスの名前の由来はハッシュドビーフから変形したとか、「早矢仕 有的(はやし ゆうてき)」さんが作ったからとか色々あって、ビーフストロガノフはロシアのストロガノフ伯爵のコックさんが作ったからビーフストロガノフらしいよ!

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